在り方について
私の実家は、ある楽器の個人教室を開いている。
私の部屋は二階の角部屋で、その真下が、教室に使っている部屋だ。
同居している祖母が師範をしており、お弟子さんが訪ねてくる環境で、毎日楽器の音を聴いて育った。
家の本棚の本を読むように、家にあるテレビをつけるように、私も自然と楽器に触れてきた。
楽器を弾くとき「自分のために弾いてる時間」「演奏者としての時間」「聴いている人のための時間」くらいには精神的な違いがある。
”私”でいるためのものと、演奏者として表現するべきものと、人から求められているものが違うとき。
”私”をどこに置くべきか。
「今は自分のための時間だから、誰にも聴かれたくない」と何度言っても、師範である祖母は聞き入れず、私は次第にに祖母の前で楽器を弾けなくなった。
自分のために弾く時間が私には必須で、どうしても失くせない大切な時間だ。
ただ、聴いてる人からすれば”私”なんていらないわけで、技術上達の心配をしている祖母が私の演奏を気にかけるのは当然と言えばそうなのだが。
演奏において我を出しすぎると、一部の人には支持されるけど、例えばコンテストには向いてない。
逆に「こういう演奏が聴きたいんでしょ」「私は上手にできますよ」という思いは音に乗る。コンサートだと気持ち悪くて聴いていられない。
(逆にそれが清々しいと支持されるジャンルもある。カッコつけるのが文化みたいな分野)
でも、聴いている人のために求められる形でばかり弾いていると、自分の調整が出来なくて潰れる。限界が来る。必ず。もう弾けない。一音だって出せないという瞬間が来る。
こういうのは、きっとなんでもそうなんだと思う。
私は創作活動をするが、その作品づくりでもそうだ。
人との会話や関わり方でも、そう。
”私”を”誰”に”どの程度”出して、どういう付き合いをしていくべきか。
他人の求めに対して過剰に反発せず、しなやかに、柔軟な対応で相手を受け入れ、でも決して屈せず、折れず、芯を持つ。
そこに残ったものを誇りと呼ぶのだろうけど、誇りにために、何をどこまで失うべきか。
そもそも、何か失っているのか?
削られているような気がしているだけで、“私”というものは、不可侵ではないだろうか。
削られている感覚によって"私"の輪郭を感じを得ていて、もしかして、それは何にも代えがたいものではないのか。
自身の心の在り方をどう保てばいいのか。
阿部真央さんの「お前が求める私なんか壊してやる」をたまに聴く。
作品が彼女自身の投影とは限らないが、もしかして、心の置場所を迷い、眠れず、叫びたい夜があったのだろうか。怒りに似た形で吐き出した悲しみではないか。などと思いを馳せながら。