チェンソーマンについて
チェンソーマン1話視聴しました。
アニメ化する前から大人気作品で、ネットでもよく話題になっていた漫画ですね。
私は現時点で全話読んでいます。
これから、感想を書いていきますが、ネタバレに一切配慮せず、これを読んでる方も全話把握してる体で書き連ねていきますので苦手な方は回れ右です。
初回は主人公のデンジくんについてです。
デンジくん、生育環境が最悪ですよね。
特に最悪なのは「貧しさ」と「逆らわないこと」です。
彼は人並みの幸せに夢見ながら、臓器を売ってまで、なぜ逆らわないのか?勇気がないから?
違うと思います。
幼少期、切羽詰まったデンジくんは悪魔を倒して、ヤクザのおじさんたちに雇ってほしいとお願いしますね。
悪魔が普通にいる世界でも、悪魔に怯えてる人たちの描写があるので、おそらく勇気がない人はそんなことはできません。
デンジくんが逆らわない理由は「無知」です。
お父さんを亡くし、途方に暮れているときにヤクザの人が「働くか体売るかで金を作れ」と教えたから、その通りに臓器を売り、雇ってもらいました。
そうなりたかったわけではなく、それしか方法を知らないからです。
そのため、”ヤクザを殺してしまえば借金もなくなる!”ということに気づいたあとは元気いっぱいに殺し回りますね。
(その前に殺されているし、殺さないと殺される場面なので普通に応戦してるだけでもありますが)
食べたら100円やると言われて飲み込んだ“フリ”をしていたので、知恵や発想があれば多少はくぐり抜けようとしています。完璧に従順なわけではないようです。
少し話が逸れますが、
“教養”というものについてお話しします。
私は、教養とは“多くの価値観に触れること”だと思っています。
もう少し詳細に表現すると“多くの物事や価値観、文化に触れて、自分の見聞を広め、視野や知見・思考の幅を広げる文化的な精神の豊かさのこと”です。
(あくまで私個人の教養についての見解になります。)
多くの価値観に触れたとき、“自分は何を思うか・なぜそう考えるか”を分析する。
そのとき見えた他者との差異を相対的な俯瞰で考えると、自分はどういう人間であるかを確認できます。
人は他者と関わり、素直に自分の見聞を広めていく活動をしないと精神的に文化的な豊かさを知ることができません。
(他人に関わったときに自分の考えにこだわるあまり、他を否定することしかできない人も、文化的に貧しい人が多いように思います。他の価値観に対して自分が対応できる選択肢が少ないからです。)
自分と他者との差異を尊重し、自分はなぜ受け入れられないのか、そこにどんな価値があるのか等を考えていくことが、豊かな精神的活動の基盤になると思います。
ただし、これは精神的な豊かさ・教養の話で、そんなことをしなくても、生きていくことはできます。
デンジくんの話に戻ります。
彼は、まともな教育を受けていません。
頼れる大人もいなかったようです。
話し合いはポチタで、それも一方的に話しかけるばかりでした。
ポチタとは言外のコミュニケーションがとれていて、お互いに絆が芽生えていたとしても、言語として他者の価値観に触れる機会はあまりなかったと推察します。
ポチタと精神世界で「夢の話を聞くのが好きだった」と言われたことが、ポチタから返ってきた初めての反応です。
お金はなく、学校にも通っていない、体の臓器は売り飛ばしてあちこちなくて、病気の兆候で吐血。
経済的にも、精神的(教養)にも、身体的にも、とにかく“貧しさ”を強調して描かれています。
彼の無知は、彼の貧しさに由来します。
「豊かさ」は、”選択の幅が多いこと”でもあり、
「貧しさ」は、”選択の余地がないこと”という見方もできます。
彼は貧しく、あらゆる選択の余地がなく、その現状を捨てることもできませんでした。
でもデンジくんは、途中で気づきます。
「美味しいもの食べれば幸せなはず」
「女抱ければ幸せなはず」
「彼女とゲームできれば幸せなはず」
幸せとは、現状に満足することだと。
確かに一理あります。どこまでも際限なく求めたら、足りない気持ちばかり溢れて、幸せにはなれません。
ただ、デンジくんの現状を考えてください。
子供のころから、自分がつくったわけでもない親の借金に追われ、臓器を売って借金に追われる生活に、満足して幸せを感じるなんて、なかなか難しいと思います。
現状に満足することを悟ったようにも見えますが、その不自然さが、彼はわからない。
普通の生活への解像度が低くて、想像ができないんです。
彼はポチタ以外の友達もなく、親もいない環境でした。
人との関わりが希薄だったデンジくんがほしいのは、おそらく他者との絆や信愛です。
(そこを見透かしたマキマが家族を用意した。)
でも、彼は愛情がどんなものかよく知らないから、ほしいものをきちんと求めることができません。
とりあえず「彼女ほしい」とか「女抱きたい」とかを元気いっぱいに言っていますが、後になって、パワーのおっぱいを揉ませてもらってもがっかりするんですね。
それもそのはず。
それは、デンジくんが本当にほしいものじゃないから。
少年漫画って、特に主人公なんかは、女の子のおっぱいを揉めたら普通に喜ぶことが多いと思うんですよ。
バトル漫画では、漫画の趣向として、恋愛に一切興味ないように描かれるキャラクターもいますが。
ものすごく興味津々で、揉みたくて、やっと揉めた!!ってときに、がっかりする主人公を描くのって新鮮ですよね。
作者が描きたいのは胸を揉めた喜びや子供らしくはしゃぐ姿ではないようです。
あんなことやこんなことして女の子抱きたい!!って散々言わせたのに、結局そんなことなんて一切させずに、がっかりまでさせて、最終的に愛をもって穏やかに食べ尽くす描写までしてますからね。
ひとりぼっちで無知で、人との関わり方も愛も知らない少年デンジくんが、少しずついろんなものを得ていく成長過程。味わい深いです。
借金に追われる生活への“抵抗”
他者との関わりや“信愛”
ほしいものを正しく求める言葉や発想すらない状態が、彼の貧しさと未熟さです。
もしもデンジくんが一般家庭に生まれて、
綺麗な初恋が実らず、
特に好きでもない女となんとなく食後のデザート食べながら、
惰性で不自由ない暮らしをして、
でもなんとなく世の中うまくいかなよな~という無力感に苛まれて、
少し贅沢で仄暗いフラストレーション抱えて、
そのまま好きでもない女のおっぱいをなんとなく揉んでみる。
そこで初めて“肉欲を求めた”ことになると思います。
そうなれば、きっとおっぱいを揉むこと自体に多少は喜べるような気がします。
(男性として女の子のおっぱいを揉んだことはないので想像ですが……)
そしてその後に大切な女性に出会い、女の子を適当に扱ってしまった過去に罪悪感を持つまでがセットで……
要するに、もう少し大人になってから、おっぱいを揉もうね!デンジくん!
第二部の今後が楽しみです。
チェンソーマン、オープニングも作画も全部かっこよかったです。
チェンソーマン、サイコー!