文学観について
私は趣味で小説の執筆をしていて、先日、いただいた感想に「文学観について話を聞きたい」というお言葉をいただきました。
文学観、というと読み手としてなのか、書き手としてなのか、少し迷いましたが、私の創作についての感想にそのような言葉が含まれていたので、今回は創作する側・書き手としてのお話でお伝えしてみようと思います。
文学観って難しいですよね。文学観というか、私の場合、創作するうえでのこだわりのような話にはなってしまいますが……
私は物心ついた頃から今まで、たくさんの文章に触れてきて、たくさんの文章を自分の中でも練ってきました。
小学校では中休み、昼休み、放課後を図書館に通いつめ、だいたいの本を読み尽くしました。私の他に各学年に一人くらいずつそういう子がいて、なんとなく顔だけ知っているけど特に話しかけることもなく、それぞれがお気に入りの席で本を読むような。
本が好きな人はきっと皆さんだいたい同じような道を辿っているのではないでしょうか。
そのように、私は本と共に人生を過ごしてきました。
生きていくうえで、様々な価値観が変化していくように、読む本の種類や傾向も変わり、私が紡ぐ文章も変化し続けており、きっと今後も変わっていくと思います。
ですので、これはあくまで現時点でのこだわりということになります。
前置きが長くなりました。
文章を書くときに、子供の頃は、少し難しくて画数の多い漢字が格好良く見えるように、文章も言葉をこねくり回す表現というか、独特な言い回しや尖った文章、セリフが格好良く見えていました。
今もそれはそれでまあ、面白いのですが。
ただ、生きていて様々な困難にぶつかり、もうだめだと思ったときに、私を支えてくれる言葉は、単純な言葉の方が多いことに歳を重ねることで気が付きました。
静かに胸に残り続け、ふとしたときに思い出して、背中を押してくれる。お守りのような言葉はいつも簡単でシンプルなものでした。
それから、言葉の単純さというものについて考えはじめました。
簡単に見えるこの一言は、書き手がどれだけその言葉について長年考えを重ねて、思いを込めて、不純物を取り除き、研ぎ澄まして、抽出して書き出した言葉だったんだろうと、思いを馳せるようになりました。
なので今は、どれだけ簡潔な短い文章や、単純な言葉に自分を込められるかということを意識しています。
これは余談になりますが、
私は作品や登場人物にあまり直接的に自分を投影しないタイプで(なので主人公の性別や年齢や性格も様々です)、あくまで舞台設定や表現装置としての人物配置をしていて、その作品全体を通して自分の伝えたいことをどう表現できるかを常に考えています。
自分をそのまま登場させることはほとんどできません。
自分を押し出して晒す自伝的な書き方ができる強さみたいなものが私にはないのですが、そういう書き方ができたらかっこいいな、という憧れはあります。
やはり自分を晒すというのは、読み手がより作品に寄り添いやすいというか、瑞々しさや共感しやすさ、生きた言葉の届きやすさなど、それだけでかなり強力な魅力になり得るだろうと思うので。反感を買いやすいだとか、書き手の逃げ道の無さと言う面で諸刃の剣ではありますが。
でも、自分のことしか書けなかったら、私はきっともうとっくに筆を追っているでしょうね。
さて、、簡単にはなりますが、これでお答えになっていると良いのですが……
ご感想ありがとうございました!
近々、カクヨムかエブリスタで中編を修正加筆しながら投稿するかもしれません。
それか次の文学フリマですね……
小説はどうしても縦書きがよくて。
こだわりが強すぎて、どこにも出せないのをどうにかしたいものですね……
在り方について
私の実家は、ある楽器の個人教室を開いている。
私の部屋は二階の角部屋で、その真下が、教室に使っている部屋だ。
同居している祖母が師範をしており、お弟子さんが訪ねてくる環境で、毎日楽器の音を聴いて育った。
家の本棚の本を読むように、家にあるテレビをつけるように、私も自然と楽器に触れてきた。
楽器を弾くとき「自分のために弾いてる時間」「演奏者としての時間」「聴いている人のための時間」くらいには精神的な違いがある。
”私”でいるためのものと、演奏者として表現するべきものと、人から求められているものが違うとき。
”私”をどこに置くべきか。
「今は自分のための時間だから、誰にも聴かれたくない」と何度言っても、師範である祖母は聞き入れず、私は次第にに祖母の前で楽器を弾けなくなった。
自分のために弾く時間が私には必須で、どうしても失くせない大切な時間だ。
ただ、聴いてる人からすれば”私”なんていらないわけで、技術上達の心配をしている祖母が私の演奏を気にかけるのは当然と言えばそうなのだが。
演奏において我を出しすぎると、一部の人には支持されるけど、例えばコンテストには向いてない。
逆に「こういう演奏が聴きたいんでしょ」「私は上手にできますよ」という思いは音に乗る。コンサートだと気持ち悪くて聴いていられない。
(逆にそれが清々しいと支持されるジャンルもある。カッコつけるのが文化みたいな分野)
でも、聴いている人のために求められる形でばかり弾いていると、自分の調整が出来なくて潰れる。限界が来る。必ず。もう弾けない。一音だって出せないという瞬間が来る。
こういうのは、きっとなんでもそうなんだと思う。
私は創作活動をするが、その作品づくりでもそうだ。
人との会話や関わり方でも、そう。
”私”を”誰”に”どの程度”出して、どういう付き合いをしていくべきか。
他人の求めに対して過剰に反発せず、しなやかに、柔軟な対応で相手を受け入れ、でも決して屈せず、折れず、芯を持つ。
そこに残ったものを誇りと呼ぶのだろうけど、誇りにために、何をどこまで失うべきか。
そもそも、何か失っているのか?
削られているような気がしているだけで、“私”というものは、不可侵ではないだろうか。
削られている感覚によって"私"の輪郭を感じを得ていて、もしかして、それは何にも代えがたいものではないのか。
自身の心の在り方をどう保てばいいのか。
阿部真央さんの「お前が求める私なんか壊してやる」をたまに聴く。
作品が彼女自身の投影とは限らないが、もしかして、心の置場所を迷い、眠れず、叫びたい夜があったのだろうか。怒りに似た形で吐き出した悲しみではないか。などと思いを馳せながら。
話し合いについて
恋愛関係において相手に求めることや大切にしていることは何かありますか?
私は「話し合いができるかどうか」です。
「話したところで人は変わらない」という言葉ありますよね。それもわかります。
本質的な性格や気質の部分は変わらないかもしれません。
相手に変わってもらうのは無理なので、正確には、自分が変わろうと強く意識すれば、変えられる部分もあるとは思っています。
例えば、あるカップルを想像してみてください。
どうしても直せない浮気癖のある彼氏がいたとします。
彼は最終的にいつも罪悪感に負けて自白して謝ります。
彼女は、もし浮気してしまったとしても隠し通してほしいし、隠してくれてるなら知らないことと同じだから許せるのにと思っているとします。
でも彼女も時々不安になって恋人のスマホを確認させてと言う癖がある。
このような恋人関係の場合、彼氏が浮気をする根本的な部分は変わらないかもしれないですが、彼の努力次第で、罪悪感に駆られて謝罪することをやめて、隠し通す工夫はできるはずです。
彼女の方も、彼が浮気をする人だと認めて、隠してくれているならもうスマホを見ないと決意することはできるはずです。
話し合いとは、このように「自分と相手には何ができて、何ができないのか」というお互いの妥協点や擦り合わせを行うことだと思います。
間違っても、過剰に相手を責めて好き勝手傷つく言葉をぶつけ合うことが「話し合い」や「言いたいことを言える関係」ではないと思います。
約束を破ったことで相手を責めてしまう気持ちがあったとしても、「浮気する人は最低の人間だ」「人のスマホを見たがるなんてメンヘラみたいで頭おかしい」などと言うのは人格否定ですよね。
「約束したのに守ってくれなくて、傷ついた」「信用されていないと感じて辛い」など、人ではなくで事象に対して自分がどう思うのかについて話して、二人の関わり方を相談していくことが話し合いだと思います。
ただ、どうしても価値観として「浮気する人は無理」「スマホ見たがる人は無理」など、譲れない部分があるとしましょう。
その時は、もう離れる覚悟をした方がいいかもしれません。
自分が相手に対して「どうしても無理だ」と思う部分をなんとも思わない人が、必ずいます。
浮気なんていくらでもどうぞ、と思う人もいれば、
スマホなんていくらでもどうぞ、と思う人もいます。
そういう人にお互いに出会えるように、手放してあげた方が円満かもしれません。
根本的な部分が合わない人とは、もうこの時点で、それ以上の関係を続けるのは難しいと思います。それは個性の問題で、誰も悪くない。
無理に相手に合わせようとすることで、精神的な不調を起こすことになる前に、手を引くことをお勧めします。
ただ、そんなにあっさり引けないのが恋というものですよね。
どうしても諦めきれない場合は、もう限界!となるまで合わせようとしてみるものありです。
いつか必ず、手放す時が来ます。
限界を迎えます。
離れるのはそれからでもいいかもしれません。
そこからしか学び得ないこともきっとあります。
恋愛以外でも、人生は選択の連続で、つい正解を選びたがってしまいますが、実は正解なんて確かなものはないような気がします。
ただ、私たちは自分の選択を正解にしていく力があるはずです。
どう転んでも、転んだ先で「これでよかったんだ」と思えるように努めることはできます。
人は皆、自由に思うまま生きていいし、自分らしさを削らなくていいんです。
それは恋愛において、相手も同じです。
あなたも自由に生きていいし、
相手もあなたに合わせず自由に生きていいはずです。
話し合いを通して、
「自分が本当に愛しているのは君だけだけど、どうしてもまた浮気をしてしまうかもしれない。もししたときは隠し通して、なるべく君を傷つけないように努力します」
「あなたが浮気をしてしまう人なのはわかったから、もう不安になるのはやめて、スマホを見ようとするのはやめます」
と、お互いに約束して、関係構築のために努力できるかどうかが、精神的な自立ではないでしょうか。
そもそも話し合いができない人間関係の終着点は「我慢する」か「拒絶する」かしか選択の余地がありません。
我慢する場合、彼氏はどうしても治らない浮気癖がある自分を責め続けるしかありません。彼女も不安に潰されてしまいます。
拒絶の場合は、まだ何も詳細を話し合っていないのに、
「嫌なら別れる」「自分には関係ない」「そっちの問題でしょ」「なんでも話せばいいわけじゃない」などと言います。
拒絶してるのに話し合おうとしても、拒絶してる側にしてみれば「嫌なことを言ってくる」としか捉えられず、お互いに不満が募っていきますね。
我慢も拒絶も、相手とのコミュニケーションがなく、ひとりで完結させようとしています。
恋愛は双方の関係性なので、自己完結で二人の問題から逃げる人と、関係を長く続けることは難しいと思います。
相手がどういう対応をしてくれたら許せるのか、どうしたらお互い楽しく付き合えるのかなどを考える労力をや時間をあなたには使いたくないってことは、関係性をより良くしていく気がないということです。
人は、自分以外の物事を他人事と捉えようと思えばいくらでもできるものですが、
大切な人のこととなると、他人事にはできないんです。
相手が辛いと自分も辛い。相手が幸せになってくれたら自分も幸せ。
そう思えずに、相手と関わることで生じる問題から逃避しようとする人は、
本当は相手のことを大切に思えていないのではないでしょうか。
そういう人とは、今後の人生で長くは一緒にいられないですよね。
相手がどのような価値観を持ち、何が嫌で、どうされると許せるか、何が嬉しいか。
そういった話し合いができないなら、恋人関係を続けるのは難しいと思います。
せいぜい「楽しい時間だけを一緒に過ごすお友達」の関係で十分だと思います。
「話し合いに応じてくれる人かどうか」はとても大切だと思うな、というお話でした。
チェンソーマンについて
チェンソーマン1話視聴しました。
アニメ化する前から大人気作品で、ネットでもよく話題になっていた漫画ですね。
私は現時点で全話読んでいます。
これから、感想を書いていきますが、ネタバレに一切配慮せず、これを読んでる方も全話把握してる体で書き連ねていきますので苦手な方は回れ右です。
初回は主人公のデンジくんについてです。
デンジくん、生育環境が最悪ですよね。
特に最悪なのは「貧しさ」と「逆らわないこと」です。
彼は人並みの幸せに夢見ながら、臓器を売ってまで、なぜ逆らわないのか?勇気がないから?
違うと思います。
幼少期、切羽詰まったデンジくんは悪魔を倒して、ヤクザのおじさんたちに雇ってほしいとお願いしますね。
悪魔が普通にいる世界でも、悪魔に怯えてる人たちの描写があるので、おそらく勇気がない人はそんなことはできません。
デンジくんが逆らわない理由は「無知」です。
お父さんを亡くし、途方に暮れているときにヤクザの人が「働くか体売るかで金を作れ」と教えたから、その通りに臓器を売り、雇ってもらいました。
そうなりたかったわけではなく、それしか方法を知らないからです。
そのため、”ヤクザを殺してしまえば借金もなくなる!”ということに気づいたあとは元気いっぱいに殺し回りますね。
(その前に殺されているし、殺さないと殺される場面なので普通に応戦してるだけでもありますが)
食べたら100円やると言われて飲み込んだ“フリ”をしていたので、知恵や発想があれば多少はくぐり抜けようとしています。完璧に従順なわけではないようです。
少し話が逸れますが、
“教養”というものについてお話しします。
私は、教養とは“多くの価値観に触れること”だと思っています。
もう少し詳細に表現すると“多くの物事や価値観、文化に触れて、自分の見聞を広め、視野や知見・思考の幅を広げる文化的な精神の豊かさのこと”です。
(あくまで私個人の教養についての見解になります。)
多くの価値観に触れたとき、“自分は何を思うか・なぜそう考えるか”を分析する。
そのとき見えた他者との差異を相対的な俯瞰で考えると、自分はどういう人間であるかを確認できます。
人は他者と関わり、素直に自分の見聞を広めていく活動をしないと精神的に文化的な豊かさを知ることができません。
(他人に関わったときに自分の考えにこだわるあまり、他を否定することしかできない人も、文化的に貧しい人が多いように思います。他の価値観に対して自分が対応できる選択肢が少ないからです。)
自分と他者との差異を尊重し、自分はなぜ受け入れられないのか、そこにどんな価値があるのか等を考えていくことが、豊かな精神的活動の基盤になると思います。
ただし、これは精神的な豊かさ・教養の話で、そんなことをしなくても、生きていくことはできます。
デンジくんの話に戻ります。
彼は、まともな教育を受けていません。
頼れる大人もいなかったようです。
話し合いはポチタで、それも一方的に話しかけるばかりでした。
ポチタとは言外のコミュニケーションがとれていて、お互いに絆が芽生えていたとしても、言語として他者の価値観に触れる機会はあまりなかったと推察します。
ポチタと精神世界で「夢の話を聞くのが好きだった」と言われたことが、ポチタから返ってきた初めての反応です。
お金はなく、学校にも通っていない、体の臓器は売り飛ばしてあちこちなくて、病気の兆候で吐血。
経済的にも、精神的(教養)にも、身体的にも、とにかく“貧しさ”を強調して描かれています。
彼の無知は、彼の貧しさに由来します。
「豊かさ」は、”選択の幅が多いこと”でもあり、
「貧しさ」は、”選択の余地がないこと”という見方もできます。
彼は貧しく、あらゆる選択の余地がなく、その現状を捨てることもできませんでした。
でもデンジくんは、途中で気づきます。
「美味しいもの食べれば幸せなはず」
「女抱ければ幸せなはず」
「彼女とゲームできれば幸せなはず」
幸せとは、現状に満足することだと。
確かに一理あります。どこまでも際限なく求めたら、足りない気持ちばかり溢れて、幸せにはなれません。
ただ、デンジくんの現状を考えてください。
子供のころから、自分がつくったわけでもない親の借金に追われ、臓器を売って借金に追われる生活に、満足して幸せを感じるなんて、なかなか難しいと思います。
現状に満足することを悟ったようにも見えますが、その不自然さが、彼はわからない。
普通の生活への解像度が低くて、想像ができないんです。
彼はポチタ以外の友達もなく、親もいない環境でした。
人との関わりが希薄だったデンジくんがほしいのは、おそらく他者との絆や信愛です。
(そこを見透かしたマキマが家族を用意した。)
でも、彼は愛情がどんなものかよく知らないから、ほしいものをきちんと求めることができません。
とりあえず「彼女ほしい」とか「女抱きたい」とかを元気いっぱいに言っていますが、後になって、パワーのおっぱいを揉ませてもらってもがっかりするんですね。
それもそのはず。
それは、デンジくんが本当にほしいものじゃないから。
少年漫画って、特に主人公なんかは、女の子のおっぱいを揉めたら普通に喜ぶことが多いと思うんですよ。
バトル漫画では、漫画の趣向として、恋愛に一切興味ないように描かれるキャラクターもいますが。
ものすごく興味津々で、揉みたくて、やっと揉めた!!ってときに、がっかりする主人公を描くのって新鮮ですよね。
作者が描きたいのは胸を揉めた喜びや子供らしくはしゃぐ姿ではないようです。
あんなことやこんなことして女の子抱きたい!!って散々言わせたのに、結局そんなことなんて一切させずに、がっかりまでさせて、最終的に愛をもって穏やかに食べ尽くす描写までしてますからね。
ひとりぼっちで無知で、人との関わり方も愛も知らない少年デンジくんが、少しずついろんなものを得ていく成長過程。味わい深いです。
借金に追われる生活への“抵抗”
他者との関わりや“信愛”
ほしいものを正しく求める言葉や発想すらない状態が、彼の貧しさと未熟さです。
もしもデンジくんが一般家庭に生まれて、
綺麗な初恋が実らず、
特に好きでもない女となんとなく食後のデザート食べながら、
惰性で不自由ない暮らしをして、
でもなんとなく世の中うまくいかなよな~という無力感に苛まれて、
少し贅沢で仄暗いフラストレーション抱えて、
そのまま好きでもない女のおっぱいをなんとなく揉んでみる。
そこで初めて“肉欲を求めた”ことになると思います。
そうなれば、きっとおっぱいを揉むこと自体に多少は喜べるような気がします。
(男性として女の子のおっぱいを揉んだことはないので想像ですが……)
そしてその後に大切な女性に出会い、女の子を適当に扱ってしまった過去に罪悪感を持つまでがセットで……
要するに、もう少し大人になってから、おっぱいを揉もうね!デンジくん!
第二部の今後が楽しみです。
チェンソーマン、オープニングも作画も全部かっこよかったです。
チェンソーマン、サイコー!